こんにちは!田才諒哉(@ryoryoryoooooya)です。
ミャンマーのヤンゴンから、世界三大仏教遺跡の町バガンへ向かう夜行バスの中、この記事を書いています。
5年前のちょうど今頃、青年海外協力隊としてアフリカにあるザンビア共和国に派遣されていました。
当時の何もできない自分を思い出し、5年経った今、変わったことと変わらないことを綴りたいと思います。
5年前のぼくはまだ大学生で、今振り返ると、何十倍も視野の狭い世界で生きていたと思います。でも、それでいいと思うんです。そういうものだから。
一番伝えたいことは、だれもがいきなり完璧にはなれないし、国際協力の世界は先の長い世界なので、焦らず、自分のペースで大丈夫だよ、ぼくもそうだったし、ということです。
※夜行バスの中で、深夜のテンションと勢いで書いたものを、編集もせずそのまま載せちゃってます。たぶん途中から話の内容変わってるかも笑
変わったこと
語学力
まず真っ先に思いついたのは語学力。
ザンビアは英語が公用語の国なので、活動で使う言語は英語だったのですが、当時は自分の言いたいことを言うことがほとんどできませんでした。
きっと配属先の同僚からは、「わざわざ遠くの日本からコミュニケーションもろくにとれないやつがきた」と思われていたと思います。
「とにかくまずは現場を経験すること!」
当時はこれが大切だと信じていたし、今もそのことに変わりはないのですが、日本でもできることをできないまま国際協力の世界に足を突っ込むことは違うと思うようになりました。
「人対人」が織りなす国際協力の現場では、その人の能力、人間力が大きくプロジェクトに影響します。そしてそのプロジェクトの規模が大きければ大きいほど、あなたの判断が、何千人、何万人もの人に影響を及ぼす可能性も十分あります。
これまで青年海外協力隊として派遣されたザンビアに限らず、NGOのスタッフとして関わったパラグアイ、スーダンでもそのことを痛いほど感じ、国際協力の世界に飛び込むからには、「覚悟と誠意」を忘れないことを心がけています。
ちょっと話は逸れましたが、5年経った今、イギリスの大学院で、なんとかではあるものの、英語で不自由なく授業を受けることができ、議論にも参加できています。そして英語だけでなく、スペイン語でも仕事ができるようになりました。
「語学は努力」
こればかりは揺るぎない事実なので、努力が苦手な人ほど、語学学習について自分自身の能力を振り返る機会をもつといいと思います。
ぼくも怠けがちで努力が苦手な人間なので、この機会に宣言。今年はIELTS 7.5以上とります!
覚悟と誠意
さて、先ほどの話の中で少し登場したのですが、「覚悟と誠意」についてもう少し掘り下げてみたいと思います。
5年前、まだぼくが学生だった頃、とにかく現場に行きたくて、そして「飛び込まなきゃ」と誰にお願いされてるわけでもないのに、飛び込み先を探す自分がいた気がします。求められてもいないのに、成約可能性のない営業マンを続けていた感じです。
いわゆる開発途上国とよばれる国には、解決すべき課題、そしてそのニーズはあります。
では、ニーズがあればそこに飛び込んでいいのでしょうか?
世の中の多くのことはマッチングで成り立っています。ニーズに対して、それを満たす能力があるから仕事が成立するのです。国際協力の世界で活躍できる営業マンになるためには、あなたの能力を磨く必要があります。
日本人がアフリカに行けば、少しでもなにかできるはず!は幻想で、もし本気でそう思っているのだとしたら、日本人はアフリカの人より優れているとでも思っているのでしょうか?
さてさて今ぼくは絶賛就職活動中なのですが、国際協力の仕事はマッチングだということを日々痛感しています。要請主義なこの業界でやっていくためには、己を磨き続ける覚悟が必要です。その覚悟なしでは、成約率が限りなく低い営業をやり続けるか、マッチングしてもお互いの価値観の相違ですぐに別れてしまうような、某出会い系マッチングアプリでひたすら右側にスワイプし続けるようなものです。
そしてもう一つが「誠意」
文化も価値観も違う異国の地で、開発ワーカーとして一人の人間を受け入れてもらうことは、自分が思っている以上に多くの負担があります。
自分を送り込むためにコーディネートをしてくださる組織や、受け入れてくださる国、そしてその国の人々に、これでもかというくらい感謝しても、してもしてもしきれないくらいの手厚いサポートをされているということを絶対に忘れてはいけません。
もともと誠意がなかったというわけではなく、誠意を"必要以上に"もつこと。これも変わったことの一つです。
変わらないこと
なぜか国際協力が好き
国際協力との出会いは偶然で、大学生まではそんなものにまったく興味もなく、そして海外に行きたいとも思っていませんでした。どちらかというと安定した環境の中で、ぬくぬくとのんびり過ごしたい人間でした(ぬくぬくのんびりは今も変わりませんが)。
友達に誘われて参加した大学の国際協力ゼミでそいつに没頭し、現場に行くなかでそいつを好きになり、なぜか今でも生活の一部であるそいつを好きな理由は正直わかりません。
あのときなんとなく国際協力を始めて、今もなんとなく国際協力をやっている。
それが一番本心に近く、その心にウソをつく気もありません。
よくソーシャルセクターだと、「原体験の重要性」をいわれたりします。だから、ぼくも自分の原体験を探すことに躍起になっていた時期もありました。
でも、ぶっちゃけそんな瞬間がピンポイントであるわけでもなく、いくつもの人生のページの積み重ねが、自分を国際協力の世界で突き進ませる後押しをしてくれているのだと思います。
「原体験ってなんだろう?」
「なんで国際協力をやっているんだろう?」
という方。それでいいと思います。むしろ、強い原体験や使命感がなくても、普通の人間がだれでも国際協力ができるようになったことを喜びたいです。
人間力が一番大切な仕事である
国際協力の仕事は、どこまでいっても「人対人」。
AIに最後までとって代われない仕事は本気で国際協力なんじゃないかと思ってます。
文化も言語も宗教も異なる地で、政府のお偉いさんやスラムで暮らす貧しい人など立場の異なる人と触れ合い、相手からいやでも「日本人」という烙印を押された中でとるコミュニケーションは、ときに平行線をたどり、ときに激しく言い争うこともあります。
でも、不思議とバチバチした関係ほど、ふと気がつくと協力関係になっていたり、あんなに話の分からない人とやる仕事が、お互いのインターセクショナリティが交わらないからこそ上手くいくときがある。
そんな予測不可能なことの連鎖が国際協力の醍醐味でもあり、貧困はなくすことができるし、世界平和も実現できると、理屈では達成が難しいことの実現に希望をもたせてくれる所以でもあります。
AIでなにもかも予測できる時代は整っていて美しく、未来を変えるかもしれません。けど、「人対人」の泥臭いぶつかり合いも、未来を変える力をもっていると信じています。
真実は目の前にしかない
『FACTFULNESS』という名著をみなさん読みましたでしょうか?
データで世の中を見ることは大切で、特に国際協力の仕事にデータ分析力は欠かせません。
5年前ザンビアでのこと。任地にあった保健省の支局から、任地で蔓延している病気に関するデータをもらうと、マラリアが一番猛威をふるっていることがわかりました。そこでぼくはマラリア対策プロジェクトを立案しましたが、住民にそのことを話してみると、どうも反応はよくありません。「うーん、まあマラリアはよくかかるし、治るからねえ!」なんて笑顔で話す人もいちゃったり。「それよりコレラの方が深刻なんだよね」そんな声を聞くことがほとんどでした。
これは国際協力の現場では非常に難しい局面です。
データ上(客観)ではマラリアが、住民の意見(主観)ではコレラが最も深刻であると認識されているとき、どちらに注力することがいいのでしょうか?
ぼくはまだこの答えを持っていません。持っていない、は言い過ぎかもしれませんが、局面局面で、最善の判断を下すことをしています。
データはとっても大切です。でも、国際協力の世界は「人対人」であるからこそ、ときには感情論も大事にしたいとぼくは思っていて、その感情と真っ正面からぶつかるためには、やはり現場へ行き、真実を目の前で確認することが大切だと思います。
ミャンマーは暑い。
この日も最高気温は34℃。
昼間は汗が頬をつたい、水分をとればとるほど止まらないという悪循環の罠にハマっている。Poverty trapもきっとこんな感じ。汗が出るとわかっていても、水分をとらざるを得ない状況があるんです。
さて今ぼくはこの記事を、夜行バスでいっきに書き上げたところだ。
震える手で、なんとか1文字1文字を丁寧に綴りながら。
ミャンマーはたしかに暑い。
でも、夜行バスの中は冷房がガンガンに効いており、9時間の長旅を半袖1枚で過ごすのは、ほぼ生き地獄で、寝る暇を与えてもらえない。前にも南米でウユニ塩湖からアルゼンチンを縦断するバスで同じことがあったのに、なんでウルトラライトダウンの一つでも持ってこなかったんだろう。
「34℃だから暑い」は本当に正しいのか?
真実は、いつも目の前にしかないのです。
自戒を込めて。